地球ごめん

地球環境について思ったことと、趣味のバイオリンについて書きます。という目的で開設したがなんか考え事の雑記が主。

自己否定→自己肯定→快感 転じて支配への誘導

自己否定をした後に、自己肯定をすると、脳内ガチャでなんか嬉しい楽しい喜ばしい物質が出る。
んで、その働きが、ビジネス、というか、人が人を使う(操る)場に用いられているのだろうか、などと思う。

そんな感じの雑記。

 

個人的な変遷を書く。

好きな漫画の更新日に漫画を読み、飯を食いがてら漫画の感想ブログなどを循環しているといつのまにかふて寝。起床してなにか活動しようとするも、寝起きは体が少しきつい。ついつい横になった状態でも見ることができる漫画に手を出そう、としてしまう。
そこで、「漫画が好きだから読む、よりもつい惰性で読もうとしてるのじゃないか」と感じる。

ふて寝の、陸続きの堕落である。坂口安吾堕落論」には、「義士も聖女も堕落する」などの文があるようだが、そういう上下差のない堕落。(上下差がない、という点では堕落という言葉は不適切か?)

 

惰性で漫画を読むのは嫌なので、机に向かう。コーヒーを淹れ、お菓子を手に取ろうとするが、あまり腹が減っていない。それでもコーヒーに手を出そうとするが、「なんとなくコーヒーを飲もうとする行為は、惰性で漫画を読むのと同じだ」などと思い、がまんする。

となると、コーヒーを飲むことでさえなんだか罪悪感のようなものを感じ、やることなすことに八方ふさがりの感覚を覚え、辛くなってきた。

 「自分が好きだ、と思っていることは、結局、ただ惰性でやっているだけなのではないか??」

 自己否定。

 

・・・

 

そういう状態からまわりまわって文章を書く作業に落ち着いたのだが、そんなときに自然と「コーヒーを飲みたい」と感じ、手にして、飲む。うまい。

コーヒーを飲もうとする自分に自己否定感を感じていたが、それでもやっぱり飲みたいのだ、好きなのだ、好きだからコーヒーを飲むのだ、と思うと、自己肯定感を感じ、ささいなことであるが嬉しくなった。

自己否定から自己肯定に変わると嬉しくなった。

 

コーヒーを飲む、飲まないなんて行動の選択からも、自己否定→自己肯定、という変遷は快感である、という一種のモデルが抽出された、と感じたのだ。

(否定→肯定、というのはベートーヴェン「運命」っぽいな、と思う)

  

・・・

 

自分の好きなことを、やっぱり好きだ、と思えることはうれしい。

そして、好きなことを惰性なしにやるのは難しい。

 
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自己否定→自己肯定→快感、自己を略して「否定→肯定→快感」というモデルが、ビジネスの場、というよりも、人が人を使う、人を操る場で用いられているんじゃなかろうか、などと思う。

使役される側の人が快感を求め進んで作業を、仕事をしてくれるのだ。強制力を働かせるまでもなく。使役する側の人間も余計なエネルギーを使わずにすむし、人に強制する、という罪悪感やストレスもなかろう。
「人が人を使う」と書くと悪いイメージがあるが、そこに満足感があるならばそれでよいんじゃなかろうか。

 

結論はないが、そんなことを考えたのだ。

 

支配する人(支配したがる人)は「自己否定→自己肯定」を数多のテクニックの内の一つとして用いているのだろうなあ。

 

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国家のように、国民になんかしらの強制力を働かせる立場の存在は「否定→肯定→快感」というモデルを用いたりしているのだろうか、と想像する。
いち国民として生きていて、「国から否定された」「国から肯定された」など思ったことはないので実感はない。どうなんでっしゃろ。

国家が国民に強制力を働かせるのは、「保証」、やら、収監・死刑などに代表される「裁き」か。とか思ったり。

なんか反社会的な思考に飛躍しそうなのでやめる。おわり。

 

 

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地球環境問題の解決に、「否定→肯定→快感」からのアプローチはできないか??


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ふて寝:ふてくされて寝ること。
ふてくされる:不平不満でやけを起こしたり、反抗的な態度をとること。
三省堂の国語辞典から適当に引用)
上記文章で、ふて寝、と書いたが、特に不満などはないので不適切な言葉の用い方だ。しかしながら、「ふて寝」という語感に、どうしようもないだらしなさを感じ、ふて寝、と表現した。

 

自身について、特に心理的な変遷を文章にするのは楽しくも難しい。他人に伝わるのか、なんてわからない。似たような経験をしたことがある人ならわかるだろう、と思うことにする。