我慢は美徳か、の汚いたとえ話
我慢は美徳だ、我慢できる奴は偉いんだ、我慢できないやつはだめだ、なんて話を聞いたことがあるし、自分も言われたことがあるが、じゃあウンコをずっと我慢し続けることは美徳なのですか、という話。非常に汚いたとえ話。
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人生で受け付けない人間と出会ったならば。それが一度限りではなく同じ組織に属するなどであれば。辛い。
一緒の空間にいるだけで、緊張するような人間だ。秀でた人と対峙すると緊張することはままあるが、そうではなく、その緊張が恐怖のような感情によるものだったら。
恐怖は理性ではなく、身体的な感覚だと自分は捉えている。人間の体は正直で、うまいこと設計されていると思う。刃物を見たら怖いと感じるのは、それが体に触れればケガをして最悪死ぬ、ということを体が知っているからだろう。
受け付けない、ということが思考によるものではなく身体的な感覚であるならば。まず身体的な反応があり、そのあとに理性的な理由がくるような緊張は、危険信号だと思う。緊張というよりも拒絶だ。それを我慢することに美徳はあるのか。例えるならばウンコ我慢しているようなもんだ。ウンコしたい、と思ったときに、なぜウンコをしたいのか、と考えるのと同じようなもんだ。そこには一応体のメカニズムによる理由があると思うのだが、理由が分かったからといって永久に我慢できるわけではない。ウンコ我慢し続けたら死ぬよ。
恐怖感なり、不潔さや威圧感とかそういう色んな要因で「身体的・反射的に」受け付けない人がいるとしたら、その人間は自分の体の中にたまっているウンコみたいなもんだと考えたらそりゃあ避けた方がいいと思う。
我慢することはウンコに例えるといい。ウンコを我慢しつづけることになんの美徳があるのか。
もしもウンコ我慢選手権で優勝を狙っているのであればそりゃあ歯を食いしばって我慢する。しらんけど。
もしもウンコを我慢した果てに天に召されるような啓示があるのならばそれを信じて我慢する。しらんけど。
我慢することに目的意識はあるのか、ってことだ。なんか目的があってウンコを我慢しているのですか、ってことだ。最悪死ぬんだから、出した方がいいでしょう。(過労、ストレスによる自殺が頭をよぎる)
ただ、出し方はくれぐれも注意しなければならない。適切な場所で適切な出し方で適切な処理をしなければ大惨事である。
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おやつを我慢、みたいな心の欲求の我慢と、ウンコみたいな身体的な欲求の我慢の違いは何だろう。
例えば怒られていてその内容が頭に入らない、自分のためになると思えない、頭が真っ白になる、とかであればそれはおそらくウンコだ。一緒にいると気になって集中できない、とかであればウンコだ。ウンコ我慢しているから受け入れる余裕がないからだ。ただ、一緒にいると気になって・・・というのはもしかして、もしかしたら恋の可能性もあるかもしれない。
逆に、自分が話しかけたときに相手がピクっとなるような、身体的な反応があるならば、もしかしたら相手にとって自分はウンコなのかもしれない。想像したら人間関係が怖くなってきた。
映し鏡。自分がだれかをウンコ野郎と思えば自分はだれかにウンコ野郎と思われている。人間関係は怖い。
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ウンコは極限まで我慢しなくていい。しかし食事をすればウンコが出る。ウンコを我慢する、という営みは人生で絶対について回る。生きることは辛い。しかしそれが食生活の見直しで大いに改善される、などであるならば。もしくはおいしいものを食べたゆえのであるならば。生活の見直しを面倒だと思うか、ウンコを我慢しつづけることが辛いと思うか、我慢しつづけてでもおいしいものを求めるか。天秤。
ちなみに、ウンコは肥料になる。自分にとってはウンコのような存在であっても別の環境だと何かの役に立つ。付き合い方を変えるとウンコからエンジェルに変わるかもね。
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吐き出すように汚いたとえ話をしてしまった。まさに排泄。しかもこれをネットの場に吐き出すのだから野グソである。まあモーツァルトだってウンコウンコ言っていたらしいし、本屋にもウンコの本とかあるから別にいいでしょう。