地球ごめん

地球環境について思ったことと、趣味のバイオリンについて書きます。という目的で開設したがなんか考え事の雑記が主。

時代の変遷は夢

望月の欠けたときの藤原道長のモノマネ、というネタを思いついたけど面白くなるのかなあ、誰かやってくれないかなあ・・・。


江戸時代に外国人が来たことは驚きであったらしい。

 

大河ドラマで幕末に外国人を見て日本人がめっちゃ驚いているさまを描写していた。色々考えさせられた。外国から来た方が周りにいる、ということは今では当たり前なのだ。200年程で世界はすっかり変化したようだ。現代は、おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんにとってはびっくりするような時代らしい。
外国の人が普通にいる、ということはつまり距離の概念がすっかり変わったのだろうと思う。変わった。あとは速度だ。物体そして情報の到達速度だ。ヨーロッパまで1日で行ける。外国の人とネットでビデオ通話ができる。
ちなみにこの速度の飛躍的な進歩について。これは終焉へ向かう速度も跳ね上がったのではないか、などと考えると恐ろしい。自分のおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんの時代には日本に外国の人はほとんどいませんでした。自分の孫の孫の孫の時代には日本(あるいは世界)に人間はほとんどいませんでした。なんて。冗談みたいだけど未来は何がおこるかわからない。


憂いは置いといて。時代の変遷による世界の(というか人間を取り巻く環境の)変化はそれぞれの時代に生きた人たちの「夢」が反映されてきたのだろうな、と想像する。

 

日本に張り巡らされた道路は、そびえたつビル群は、60~70年頃に生きた人達の夢の結実による産物だろう。エコという観点で見ると色々思うこともあるが、現在であれ過去であれ人の夢の否定はしたくないなあ。
個人で使えるコンピュータ、インターネット、携帯電話(スマホも)、それらの一般社会への出現とその性能の飛躍的な進歩は自分が生まれた80年代から2018年現在の今にかけて起こったが、これらもあるいち個人、あるいはある集団の夢が結実したものだろう。人類の夢、というわけではないと思うが、多くの人に驚きと喜びをもって迎え入れられた結果の現代だと考えられる。食べ物であれ建物であれ目にする情報であれ、自分が触れる世の中はある時代の人たちの夢が反映されてる。


視線を現代に生きる自分に向ける。

果たして自分の夢は、そしてもうすこし大きな括りの、集団としての我々の夢はなんなのだろうか。


自分のいち個人としての夢は人生を楽しむことだが、社会あるいはこの世界を生きる人間として、つまり集団としての夢(てか目標)は、超ざっくり言うとすべての生き物が幸せであり、それが持続的に続いていくことだ。そのためには資源をどう使っていくか(エコ)、ということが重要だと思っている。なにも幸せは必ずしもモノによってもたらされるわけではない。なんか妄想みたいな感じの文章だ。

 

周りの人と話をしていると、いち個人としての幸せはよく耳にする。家庭を持ちたい、マイホームに住みたい、資格を取って実力をつけたい、組織を大きくしたい、などなど。しかし個人を超えた集団としての夢はあまり聞いたことがないなあ。

ネットサーフィンで目にするのは、テクノロジーの発展で人々の暮らしを豊かにする、各々が自分の考えをもって行動する社会を創る、という夢だ。大いに納得はするがちょっとだけピンとこない。生活の豊かさは必ずしもテクノロジーと相関しないし、自分で考えることは当たり前だろう、などと思っているからだ。それは置いといて。
まあ、あまり情報収集をしない自分でも目にするこれらの“夢”はやがて結実していくのだろう。いや、少しずつ変化しているはず。

 

万人に受けいれられるものではないのかもしれんが、自分も自分の夢に向かって何かしらの行動をしようと思う。時代の変遷について考えるとそう思った。
結局はやりたいように生きているけどこれからもそうしよう、ってことですな。