専門性なく生きる
ということを人生あるいは仕事についてちょくちょく考えている。
地球環境についてよいことをするためにはよりよく学び、専門性をみにつけることが大事だ、という考えに疑問を感じたことが発端。
地球環境の学者じゃなくても、温暖化とか詳しくなくてもエアコン使わなければいいじゃん! 車を使わなければいいじゃん!! 日本全体で一億総原始生活をすればいいじゃん!!! そしたら地球にやさしいっしょ!!!!
ってのが極論、しかし現実そうはいかず、それでも地球環境についてよいことをするためには専門性が必要だ、という考えには疑問を感じている。
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簡単で極端な例え。道端で苦しんでいる人がいる。
・今から秒速で医者になって対処する
・スマホで医療技術を調べて対処する
・医者がいる場所につれていく
・大声で「だれか医者はいませんか!」と叫ぶ
(神様に祈る)
苦悶の表情の人を見てニヤニヤする、という人間もいるかもしれないが、人を助けたい、と思ったときの対処法として考えた上記の例であり、上が一番突拍子もないことで、下が現実的な方法。
医者がだれもいない世界はそれはそれでいかんと思うが、かといって、人を助けるために誰もが医者を目指すのも極端で。
(祈りの効果については知らん)
何かを成したいと思ったとき、その方法は専門家になる以外にもある、と言いたかった。
それを地球環境をよくしたい、ということに繋げたいのだが、いったいどうすればいいのやら・・・。
一つキーワードだと思っているのはコミュニケーション。意思の伝達。
自分が医者じゃなくても、すぐ近くに医者がいなくても大声で呼ぶことで、あるいは連れていくことで人を助けることができる。
まあ、現代社会ではコミュニケーションも一種の専門性ではあるが・・・
・・・
なんかしらの方法論の確立ではないが、もやもやしたものを吐き出した次第。
専門家になれなかった人間の愚痴で、それでもなにかできることはないか、というもがき。
まあこういうことをした方が少しはマシだろ・・・と思い、今日も洗剤を使わず水もあまり使わず丁寧に皿を洗っている。これくらいは専門家じゃなくてもできる。