地球ごめん

地球環境について思ったことと、趣味のバイオリンについて書きます。という目的で開設したがなんか考え事の雑記が主。

知るべきこと

啓蒙的な題。こういうのは嫌いだけど、あえてね。「知」について長々と書いてみる。

 

犬と一緒に住んでいる人は、奴らに玉ねぎを与えてはいけない、ということを知っていなくてはならない。断言するのは、食べたら健康に良くないから。でもどれくらいが致死量なのかは知らん。

赤信号を通行してはいけない。歩行者と車がぶつかる可能性があるから。全く人や車が存在していないときはぶつからないかもしれない。

炎天下の中、なんの対策もなしに赤ん坊を車の中に放置してはいけない。赤ん坊が死んだ事例がある。致死率は知らん。

 

とまあ世の中、知っておかないと健康や生命に直結するようなことがある。これらは、知るべきことだ、と思う。特に生命は、失われたら戻らないので。

電子レンジで卵をチンしてはいけないってことも知っておいたほうがいいと思う。卵が爆発するから。必ずかは知らんけど。

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市民科学とやらに感銘を受けたのです

とある市民の方が記録していたナメクジのデータが有用性があってうんたらでまあとにかくすごい、って記事を見た。市民科学という言葉が使われていた。
あまり耳なじみはない。市民による科学。それ相応の価値があってこそだろう。しかしながらこの記事、市民科学を取り上げた記事にすごく感銘を受けた。

 

自分は一市民、現代日本に住む一人の人間として、日々色んなことに思いを巡らせ、ときに文章として考えを表している。しかし所詮ただの一市民。人生のちょっとした悩みや、ふとした思い付きなどを書いていても、巷の学者や昔の偉人達が、様々なことを考えつくしているだろうからどうせ自分の考えたことなんてゴミ、ゴミです、ゴミですよ、と勝手にへこんでいる。劣等感漬けの主観的な感情を抱いている。

 

冷静に考えてみると、昔の偉人達はパソコンとかインターネットとかないし受けた教育も違うしそもそも西洋人だったりする。巷の学者さんもそりゃあ散々悩んで考えているのでしょうが、それでも全てを追体験できようか。とすれば、案外そこらへんの道歩いてそうな輩のたいしたことない思考の試行錯誤が誰かの視界を少し晴らすのかもしれない。

なんか市民科学から逸れているような気がするが、まあ一市民の記録が役に立った、ってことに勇気をもらった、と言いたかった。

 

一市民、ある一人の人間の思考をネットの片隅にぶちまける、自分がやっていることに意味があるのかもしれない。でも意味がないかもしれない。謎!

専門性なく生きる

ということを人生あるいは仕事についてちょくちょく考えている。

地球環境についてよいことをするためにはよりよく学び、専門性をみにつけることが大事だ、という考えに疑問を感じたことが発端。

地球環境の学者じゃなくても、温暖化とか詳しくなくてもエアコン使わなければいいじゃん! 車を使わなければいいじゃん!! 日本全体で一億総原始生活をすればいいじゃん!!! そしたら地球にやさしいっしょ!!!!

ってのが極論、しかし現実そうはいかず、それでも地球環境についてよいことをするためには専門性が必要だ、という考えには疑問を感じている。

 

***

 

簡単で極端な例え。道端で苦しんでいる人がいる。

・今から秒速で医者になって対処する
スマホで医療技術を調べて対処する
・医者がいる場所につれていく
・大声で「だれか医者はいませんか!」と叫ぶ
(神様に祈る)

苦悶の表情の人を見てニヤニヤする、という人間もいるかもしれないが、人を助けたい、と思ったときの対処法として考えた上記の例であり、上が一番突拍子もないことで、下が現実的な方法。
医者がだれもいない世界はそれはそれでいかんと思うが、かといって、人を助けるために誰もが医者を目指すのも極端で。
祈りの効果については知らん)

何かを成したいと思ったとき、その方法は専門家になる以外にもある、と言いたかった。

それを地球環境をよくしたい、ということに繋げたいのだが、いったいどうすればいいのやら・・・。

 

一つキーワードだと思っているのはコミュニケーション。意思の伝達。
自分が医者じゃなくても、すぐ近くに医者がいなくても大声で呼ぶことで、あるいは連れていくことで人を助けることができる。

まあ、現代社会ではコミュニケーションも一種の専門性ではあるが・・・


・・・

 

なんかしらの方法論の確立ではないが、もやもやしたものを吐き出した次第。
専門家になれなかった人間の愚痴で、それでもなにかできることはないか、というもがき。

まあこういうことをした方が少しはマシだろ・・・と思い、今日も洗剤を使わず水もあまり使わず丁寧に皿を洗っている。これくらいは専門家じゃなくてもできる。

「思う」と「考える」、あと「感じる」

これら表現がごっちゃになっていると“思って”いるのでこれらの区別を“考えて”みた。
文中でややこしいのでとりあえずこれら(「思う」「考える」「感じる」)を総括して「思考感情」と表しておく。

 

●思う
・説明可能な「思考感情」。「感じる」に言葉(もしくはそんな概念。音とかも?)を加えたやつ。
・頭の中にある「思考感情」はだいたい「思う」が主だと“思う”。
・「思う」が意志、つまり行動に移そう、というやつにつながる?
・何回か同じような「思う」の繰り返しがあると、反復練習みたいな感じでだんだん速くなり、「感じる」に近くなってくる。『なんか知らんけどそう「思う」』というのは多分過去を紐解けば知ることができる。あるいは「感じる」とごっちゃになっている?これについてはほぼ「感じる」と同じ扱いでいいと“思う”。

 

●考える
・一言で言うと「思考感情」の中で面倒なやつ。手続きが長い。
・「思う」の連続あるいは複数の「思う」だと“考える”。
・「思う」に疑問を“感じ”たり、否定したら、それは「考える」に変化するのでは?と“考える”。
・「考える」は「思う」につながる。何か対象を知覚(見るとか触るとか)→「思う」、が複数あるいは疑問→「考える」→んで何かしら「思う」で終わり(「思考感情」が収束、あるいは意志となって行動に移す)

 

●感じる
・「思考感情」の中で最も単細胞野郎。んで直接的。
・体(ビクッとなったり)や精神(喜び、怒りとか)に直接ぶちかましてくる。
・強烈な「感じる」は上記のように直接ぶちかましがあるが、弱い「感じる」、あるいは強烈な「感じる」でも時間の経過があるものはそれに言葉が加わって「思う」に変化すると“考える”。
・「思う」の中でも単純なやつ(「面白い」「面倒」とか)は、ほぼ「感じる」と同じ扱いでいいと“思う”。

 

ざっとまとめるとこんな感じか?
強い  感じる⇔思う⇔考える 弱い
動物的     〃      人間的

 

ふと疑問に“思った”ので適当に説明を加えてみた。こういうなんかよくわからないものに輪郭を与えていくのは面白いと“思う”し、自分への理解につながるので生きやすくなるのでは、と“考えて”いる。

専門家とか詳しい人はこういうことをたくさん“考えて”いるだろうし、もしかしたら本文章はデタラメを書いているのかもしれんなと“思う”(あるいは“考える”)が、自分の頭の中を把握するのに勉強とかをするのは面倒だと“思う”(あるいは“感じる”)ので自分の言葉で説明を加えているのだ。

そんだけ。

 

米と異なる

「米」と「異」を縦につなげると「糞」。

米と異なる主食にとっては失礼な話である。
うどん、そば、ラーメン、パン、パスタは米じゃない。米と異なるから糞、とか言われたらたまったもんじゃない。かわいそうだなと思ったのだ。そんだけ。

 

しかしながら「クソ」という言葉にエネルギーを感じる。「くそったれ」「なにくそ」などという言葉は、辛いけど負けてたまるか、というときに思わずでる。
糞は堆肥となるので、いわば栄養みたいなもんだから、ここぞという踏ん張りどころで「クソー!!」と叫ぶのは案外理にかなったことなのかもしれない。
また、「クソ」とののしられても、「栄養価が高い!」と思えば頑張れそうだ。

***

「米と異なる、って書いて糞とかウケるわ」などと思っ文章を書いたが、「米 異なる」と検索したらちょこちょこ出てきた。考えることは同じか。もしかしたらこんな文章をどっかで見て、それがパッと思い出されたのかもしれない。ネット記事を消化して生まれた文章、クソ文。おわり。

命について/乾燥について

ちょっと思ったこと。命、というのは一度にたくさん食物を摂取して、それで一生継続する、ということができないのが、難しいと思う。たらふく食べたら破裂する(誇張表現です)。だから、破裂しないように摂取して、そしてエネルギーを消耗したら、時間が経過したらまた摂取して、の繰り返し。
摂取対象の食べ物も時間経過が関係する。変質する。腐って食べれなくなったりする。

その解決策の一つとして“乾燥”があるだろう。米とか小麦とか。乾燥食品の定義はよくわからんが。乾燥の恩恵を受け、安定した食にありついている。


ところで、乾燥による弊害として考えられるのが、砂漠なのではないか、と思う。
砂漠が人類にとって有益かどうかは知らないが、植物が育ちにくいという点で人類視点での地球環境にとってはよろしくないと思う。

乾燥の恩恵を受け、乾燥の弊害を受ける。
乾燥なしには安定した食料確保が難しく、乾燥が行き過ぎると食料生産の場が失われる。

 

バランス感覚が大事ってことか。だから何なんだ、発展性はあんのか、って感じだが、着想の材料、ってことで。おわり。

文章をどうまとめるか

●起
命、という主題、テーマについて文章を書き、まとまった形に仕上げて世に放とうとして、80%くらいでどうまとめようか悩みました。
まあいい機会だと思い、文章をまとめると同時にまとめかたについての考察も試みました。

文章作成の動機として「虫を殺した」ということについて思うことがあり、命について、というぼんやりとした主題が発生しました。

んで、まあ色々と思うわけです。思うだけだと自分のなかだけで完結してしまうのと、それもやがて忘れてしまうだろう、ということで、その二次的、三次的な「思ったこと」を、とりあえず文章にしていきます。そこで問題が発生するのですが、その文章の羅列だけだと、客観的にはおろか、主観的に見ても面白くないし理解できないのです。コマが無造作に羅列された漫画のよう。順序、全体構成がないと楽しめない。


●承
とりあえず何か結論づけて締めよう、と思います。その結論は、思考を止めた、あきらめた瞬間を取り上げればいいのでは、と考えました。「虫を殺した」ことについて、色々思考した挙句、面倒になって気分の問題、ってことで一旦片づける。命、という主題について深く考えるとドツボにはまるので、ある程度で考えるのをやめる。そのやめた瞬間の思考を結論とします。

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